2026年1月14日

月曜日の朝、あなたの元に経営層や上長の名前で1通のメールが届いたとします。件名は「業務調整」。
一見すると、極秘プロジェクトの打診や、緊急の相談のように見えます。しかし、その内容は少し奇妙です。「電話」でも「対面」でもなく、「新しいLINEグループを作成し、そのQRコードを送ってほしい」という指示だからです。
実際に観測されているメール文面(例)

「自分なら絶対に引っかからない」と思われるかもしれません。しかし、送信元が「社長」や「役員」の名前で、かつ「至急」と書かれていたらどうでしょうか。
これは単なる迷惑メールではありません。企業の堅牢なセキュリティ境界を、従業員の手を使って内側から突破させる、高度な標的型攻撃の入り口なのです。
この標的型攻撃には「マルチチャネル攻撃」と「CEO詐欺」という昨今のサイバー攻撃におけるトレンドが隠されています。
昨今グローバルで急激に流行している「マルチチャネル攻撃」
なぜ攻撃者は、ビジネスメール内で詐欺を完結させず、わざわざ手間のかかる「LINE」へ移行させようとするのでしょうか? ここには、企業の防衛網を無力化する「マルチチャネル攻撃」の意図が隠されています。
ログ監視を一切受けない環境への逃避
企業メールであれば、すべてのやり取りはサーバーにログとして残り、情報システム部門(情シス)による監査が可能です。 しかし、個人のスマートフォンやLINEアプリ(コンシューマー向けツール)に舞台が移った瞬間、企業側は会話内容を追跡できなくなります。これは強制的な「シャドーIT化」であり、攻撃者にとって都合の良い「死角」を作り出す行為です。
セキュリティフィルターの無効化
現在のメールフィルターは優秀です。「振込先を変更してくれ」といった詐欺特有のキーワードや、怪しい添付ファイルは即座に検知・隔離されます。 そこで攻撃者は、メール本文では当たり障りのない「業務連絡」のみを行い、「検閲のないLINE(密室)」へ移動してから本題(金銭要求やウイルス送付)を切り出すという戦法をとります。
QRコードという「画像」の壁
URLリンクをメールに貼り付けると、フィッシング対策システムがそのリンク先を解析し、危険性を警告することがあります。 しかし、「QRコードの画像」を添付させたり、やり取りさせたりすることで、テキストベースの解析やURLフィルターをすり抜けやすくしています。攻撃者はテクノロジーの隙間を巧妙に突いているのです。
古くからある「CEO詐欺(BEC)」が生成AIによって加速
古くからある「CEO詐欺(BEC)」が生成AIによって加速
技術的な回避策に加え、この攻撃の真骨頂は「心理的な罠」にあります。しかし、従来のBEC(ビジネスメール詐欺)と決定的に異なるのは、生成AIが「違和感」という防御壁を完全に破壊した点です。
かつて私たちが頼りにしていた「不自然な日本語」「微妙なマナー違反」という検知シグナルは、もう機能しません。
権威性の悪用:AIによる「完全な文体模倣」と「断れない空気」
「業務調整」「重要」という件名、そして差出人が「上層部」であること。これらは心理学でいう「権威性(Authority)」を利用した古典的な手法です。 しかし、生成AIはここを劇的に強化しました。攻撃者はCEOの過去のインタビュー記事やSNS、公開メールなどをAIに学習させ、その人特有の言い回しや口癖まで完璧に再現します。
「社長が今すぐ連絡を取りたがっている(しかも電話はできない状況)」という設定に対し、部下が「怪しいのでやりません」と即答するのは心理的に高いハードルがあります。 そこに、AIによって生成されたいかにも社長が書きそうな、少し切迫した、しかし労いの言葉を含んだ文面が加わることで、被害者の疑念は使命感へと書き換えられてしまうのです。
「他言無用」による孤立化:AIが紡ぐ「もっともらしい理由」
「他の方を招待しないでください」という指示は、機密保持のためではありません。被害者が同僚や本物の情シス部門に相談するのを防ぐためです。 被害者を孤立させ(Isolation)、冷静な判断力を奪うのはBECの常套手段ですが、ここでもAIが牙を剥きます。
もし被害者が「一度上長に確認します」と返信しようものなら、AIは即座に、かつ論理的に「なぜ今、誰にも知られてはいけないのか」という極めて合理的なストーリー(M&Aの極秘交渉、内部監査の特命など)を生成し、返信してきます。 リアルタイムで繰り出されるこの「説得の自動化」により、被害者は誰にも相談できない袋小路へと追い込まれます。
【最重要】「被害者に作らせる」という逆転の発想(IKEA効果の悪用)
この手口で最も巧妙かつ、私が「悪魔的だ」と評価せざるを得ないのが、攻撃者が招待URLを送るのではなく、被害者にグループを作らせる(オーナーにさせる)点です。
通常: 知らない人からURLが送られてくると警戒する(受動的)。
本手口: 被害者が自分で手を動かしてグループを作る(能動的)。
これは行動経済学でいう「IKEA効果(自分が労力をかけたものに高い価値や愛着を感じる心理)」や「主導権の錯覚」を悪用したものです。 「自分が作成し、自分が招待したグループ」という事実が、脳内で「ここは自分が管理している安全な場所(セーフゾーン)である」という誤った認識を強固にします。
この一手間をあえて被害者にかけさせることで、攻撃者はセキュリティへの警戒心を解除させているのです。
LINEグループに入った後、何が起きるか?
指示通りQRコードを返信し、相手(自称CEO)がLINEグループに参加した瞬間、そこは企業の監視が届かない無法地帯となります。想定されるシナリオは以下の通りです。
金銭の要求(ギフトカード詐欺)
「今すぐ取引先への贈答用としてApple Gift Cardが必要だ。後で精算するから購入して番号を送れ」といった指示。最も古典的ですが、LINE上であれば画像の送信も容易で、直感的に従わせやすくなります。
フィッシングサイトへの誘導
「緊急で確認してほしい資料がある」として、クラウドストレージ(BoxやGoogle Drive等)を模した偽サイトのURLが送られてきます。そこでID・パスワードを入力させられ、社内アカウントが乗っ取られます。
マルウェア感染
「修正パッチ」や「新しい業務アプリ」と称して、不正なファイル(AndroidのAPKファイル等)をダウンロード・インストールさせられ、スマートフォン内の情報を全抜きされる恐れがあります。
今後考えられるうるマルチチャネル攻撃シナリオ
LINEなどのメッセージアプリへの誘導は、とはいえ業務でLINEを活用するシーンが少ない場合が多いこともあり、会社を選ぶ攻撃ではありました。グローバルにおいては、攻撃者はこういった障壁を排除するため、「電話」や「SMS」への誘導を行うような攻撃も活発化しております。
今後、警戒すべきはSMSと音声を組み合わせたハイブリッド型の攻撃です。
フェーズ1(着火): 「給与振込口座に不備があります」「緊急セキュリティ通知」といったSMSが届く。
フェーズ2(信頼の偽装): リンクを開くと、本物そっくりの偽サイトが表示され、画面には「至急、担当部署へ電話してください」と番号が表示される。
フェーズ3(音声による制圧): 電話をかけると、AIで生成された自動音声、あるいはリアルタイムボイスチェンジャーを使用した攻撃者が、流暢な日本語で対応し、認証情報や送金を指示する。
テキストの時代から、音声の時代へ。 「文字」は疑えても、「声」は疑わないという人間の心理的脆弱性を突くこの攻撃手法は、LINE誘導型と比較しても、成功率と被害額の規模において遥かに高いリスクを孕んでいます。2025年以降、防御側は「音声トラフィックの信頼性」をどう担保するかという、新たな難題にも直面することになるはずです。
次世代型の攻撃に対する対策手法として求められること
何より急務なのが、従業員教育の抜本的なアップデートです。 従来の「怪しいURLを見分ける」「不自然な日本語に気をつける」といった教育は、生成AIの登場により陳腐化しました。今の攻撃メールや音声は、完璧な日本語とビジネスマナーで構成されています。
これからの教育に必要なのは、デジタルデータの真贋を見抜くスキルではありません。攻撃者が仕掛ける心理的な罠(ソーシャルエンジニアリング)を検知する直感です。
権威への健全な疑い 社長や上司からの指示であっても、それが通常の手順を逸脱している場合(例:電話でギフトカードを要求する、個人のLINEへ誘導するなど)、一度立ち止まって疑う勇気を持つこと。
心理的切迫感への耐性 「至急」「今すぐ」という言葉で思考を停止させようとする手口を理解し、相手が急かせば急かすほど、意図的に時間を置いて確認する冷静さを養うこと。
確認を賞賛する文化 「社長を疑うなんて失礼だ」という組織風土こそが最大の脆弱性です。「確認のために電話を切る」という行為が、無礼ではなく、会社を守る忠誠心ある行動として賞賛される文化(Zero Trust Culture)を醸成する必要があります。


